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冬の日。夕方。日は落ちかけている。教室内にある人影は数人しかない。 俺は明日の予習を学校で済ませることにし、テキストを開く。 数学の予習。えーと、2倍角の公式は、sin2θ=2sinθcosθで、と。 ノートにさらさらと三角関数の定理を書いていく。 横から視線を感じた俺は、眼をそちらへやる。玲。 「なにやってるの?」 見れば分かるだろ、と返答したくなったがこらえる。 俺は手を顎へやり、cos(α+β)の公式を思い出そうとしながら答える。 「予習だよ。」 空いている隣の席に座る玲。こちらをまじまじと見つめている。 正直、やりにくい。見られていると集中できなくなる。それが玲ならば尚更だ。 なぜか玲は期待に満ちた眼をしていた。周りを見渡すと、既に誰も居ない。 時計を見る。まだ夕方の5時半だ。この時間帯ならまだ人は居ても良さそうなのだが。 顔から血の気が引いていくのを感じた。嫌な予感がする。そして当たる。 「ねー、人居ないからさあ、」 と言ったのを強制的に大声で叫んでシャットアウト。 「ダメだッ!」 無表情のままたたみかけようとする玲。俺はその口を右手で押さえる。 左手は俺の口にあて、人差し指を立てて「しーっ」。玲は少し肩を落とした。 無言で過ぎていく時。人影はない。外は既に暗い。俺はノートにカリカリと問題を解く。 最近は玲が教えてくれるため、なんとか解けるようになってきた。 y=sinθ+cosθ(0<θ<2π)の最大値と最小値は、確か和の公式使って、と。 玲の視線はまだ注がれていた。微動だにせず、俺を見つめる玲。 そして、おもむろに立ち上がった。後ろに回りこみ、両手を俺の前へ回す玲。 慣れてしまい、この程度では動じない俺は言う。 「何してほしいのか、はっきりと言おうなー?」 ノートに式を書きながらニヤニヤする俺。玲は「むー」と呟いた。 そのままの姿勢で数分間。背中が暖かい。右手をポケットの中に入れ、何かを取り出す玲。 俺の机の右端に置いた。箱。シャープペンの動きが止まる。眼を見開く俺。恐る恐る口に出す。 「ま、まさか、ここで、か?」 かなりどもっている。頭は冷静のつもりだが、心臓はバクバク、顔は既に炎上している。 玲は前へ回り、横から俺を上目遣いで見ながら言う。 「うん。見てたら欲しくなった。」 淡々と言う。俺が返答に困り、頭をかいた、その時。 「動くなーっ!」 多数の生徒達が教室のドアを力強く開け、押し寄せてくる。 突然の自体に何が起こったのか分からず、呆然とする俺。玲は無表情のまま彼らを見ていた。 彼らは額に「アンパン党」なるハチマキを巻いていて、片手に2,3個の菓子パンを持っていた。 俺と玲から4,5メートル離れた位置に、円形になるように取り囲む彼ら。 「ふふふ、このときを待っていた!」 首謀者と思われる、長ランを着た男子が叫んだ。各人が次いでふふふ、と笑い出す。 俺は戦慄を覚えた。こいつら、何するんだ?と思った。 玲も同様らしく。俺の腕にしがみついてきた。それを見た首領は、 「アンパンを投げるこの時のために、この状況を作り上げたのだっ!!」 それから彼は、曰く「苦節」を語り始めた。 集中砲火をしたいがために同志を集め、クラスの人間に協力を仰いだのだそうだ。 つまり、いつもより早い時間に皆が帰ったのは、策略だったのだ。 と、そこで俺はあることに気づく。彼に向かって質問してみる。 「それ、目的と手段が逆になってないか?」 取り囲んだアンパン党の党員が一斉に首領を向く。 首領は一回咳払いをし、右手を高く挙げて叫んだ。 「アンパンを投げれればいいのだっ!目的など、どうでもよかろうなのだーっ!」 失望した。首に力が無くなり、がくんと垂れる。 周りの党員達は呼応し、一斉に叫びだす。「ジーク・アンパン党!」と。 俺は皆に聞こえるように、声を発した。彼らにノリを合わせるようにし、声のトーンを下げ、悪党っぽく。 「なんと姑息な手段・・・ッ!」 彼らは俺の言葉に一斉に反応しだす。なんやかんやと言ってきた。 その中で際立っていたのは「手段など、どうでもよかろうなのだーっ!」。二番煎じは良くない。 と考えていると、玲が皆を制し、俺を見ながらよく通る声で言った。 「『姑息』の使い方が間違ってるよ。」 俺は一瞬ポカン、とした。党員達は口をあんぐりと開けた。一瞬にして辺りが静寂に包まれる。 玲はくるん、と反転し、党員を見ながら説明を始めた。 「『姑息な』って、『卑怯な』って意味じゃなくて、『一時しのぎの』って意味なの。」 へぇー、と思わず声を上げる俺。党員は疑問符を浮かべるか、辞書で調べだすかどちらかだ。 ちなみに、後に調べてみたところ、   根本的に解決するのではなく、一時の間に合わせにする・こと(さま)。 だそうだ。意味を理解し終わった党員達の間で、だんだんと「空気読めよ」という雰囲気になり出す。 玲は説明した事に満足したのか、俺の膝の上に腰掛けた。 そこで彼らのボルテージは最高潮に達したようだ。一斉に歌いだす。 ♪ダンダダダダン、ダダンダンダダン、ダンダダダダン、ダダンダンダダン♪ 脳内ライブラリーに一件ヒット。だが、何故それなのかよく分からない。 囲んでいた彼らが、左右に分かれ、ひとつの道を作り出した。 道の先には、野球部のエース。最高速132kmと言う、恐ろしい記録を持っているという噂だ。 ♪いーまにみていろ はねさとこうき〜 まっさつぅ〜だぁ〜♪ 恐ろしい歌を歌いだす。玲は歌だけで怯えだす。俺の顔に冷や汗が流れだす。 何故なら、エースの右手にはご丁寧にゴマの紋までかたどった、アンパン型の鉄球があったのだ。 「さ、さすがにそれは犯罪チックじゃないのか!?」 俺は引きつった顔で叫ぶ。だが、周囲の党員達は歌に浸り、自らの世界に浸り、こちらに耳を貸さない。 当のエースは焦点が既にあってなく、にへら笑いを続けていた。怖い。 そして、ゆっくりと振りかぶる彼。俺は「や、やめっ…」と叫んで、手を顔の前に持ってきた。 意味を成さない可能性が高いガード。しないよりはマシか、と思っていた。 全力で腕を振り下ろすエース。「ひゃはあっ」と聞こえたのはきっと幻覚だろう。 物凄いスピードで迫り来るアンパン、もとい鉄球。やはりガードはすぐに崩され、俺の顔面にクリティカルヒット。 顔がへこむような心持がした直後、思わず悲鳴をあげ、俺の意識は闇に沈んだ。 う、とうめき声を出して起き上がる俺。 周りにはアンパンからロールケーキに至るまで、様々な菓子パンが山のように積まれていた。 顔がジンジンするのは気のせいではない。すぐ横に鉄球が転がっていた。 玲は横で俺の顔をさすっていたようだ。俺の意識が戻ったと見るや否や、質問。 「大丈夫?」 大丈夫、となんとか声を絞り出す。だが、アレはトラウマものだぞ。 眼を閉じれば、すぐに迫り来る鉄球と、正気を欠いたエースの顔が鮮明に思い浮かんでくるのだ。 俺は首を振り、忘れようと努力した。落ち着いて周りを見渡すと、既に誰も居ない。 はぁ、と俺は安堵のため息をつく。時計は7時を指していた。俺は消耗した体力を回復したかった。 すぐに帰りの準備をしようと立ち上がると、腕をつかまれた。 玲を見る。右手で俺の腕をつかんでいる。上目遣い。左目には例の箱。 「今が好機だよ?誰も居ないし。」 俺の脳内から血が段々と去っていくのが分かった。ふらつく。 玲は立ち上がると、追い討ちをかけるように制服のボタンを外し始めた。 そして、滅多に見せない笑顔を見せながら、言ったのだ。 「学校で、って中々いいよね?」 悪魔の微笑みに見えた。誰も居ない暗い学校に、二度目の悲鳴が響いた。
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